東京新聞の記者の吉岡逸夫氏が東京新聞の仕事とは別に個人的に取材をして作り上げた映画『人質』を以前観ました。この映画は劇場公開はしていなくて、イベントとして公民館の様な所を借りて自主上映をした映画だった。2004年のイラク戦争中にイラクにてイラク武装勢力によって人質となってしまった3人の日本人のうちの郡山総一郎氏というジャーナリストを単独取材したドキュメンタリー映画でした。
そんな時期にそんな危険な地域に行って捕まって日本政府に対しての声明の人質になって何やってんだ?と喧々囂々の批難を延々と報道されていた訳ですが、じゃあ実際に人質になっていた人はどんな状況だったのか?というところをゆるりと聞き出しているもので、ワイドショーとかで勝手に延々と論じられていた事とは全然次元の違う論旨のものでした。
例えば地上波テレビの放送局は複数あるわけなので、どこか一つの局でも違った側面から物事を攻めていくというやり方をしても良いと思うし、他局との差別化もできるはずなのに、どういったことかそういう事はなかなか起こらない。どこか一局でも吉岡氏の視点で取材をしても良いはずなのに。最近の話だと、どの局を回しても画面の端っこに崖から降りれなくなった野良犬の映像が延々と流れていたりした訳です。他がやってるからやらなければならないという発想は悪循環しか生まず、状況を打破するものにはなりえないんですが、なかなかそこを逸脱することが難しいということなんでしょうか?何だか何故だか耳が痛い気がするのは気のせいでしょうか?資本主義の中で育ってきた我々は飽きるという事を許されている訳なので、もっと声を大にして飽きていることを主張してもいいんじゃないかと。あ、あれ?飽きてない?飽きてないですか?っていうかこのBLOGの記事に飽きてきてますか?すみません。
ちなみに上記吉岡氏には以前品川でDjembeを叩いているときに取材を受けたりしてました。初めて新聞に名前が載ってしまった記事でしたなあ。そういえば。